会 期 : | 2009年10月1日(木)~11月29日(日) |
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開館時間: | 午前10時から午後7時 (入館は6時30分まで) *新美術館の通常開館時間は、午前10時~午後5時です。 *本展覧会は開館記念特別展第1弾につき、延長して開催いたします。 |
休館日: | 月曜日(10/12、11/23は開館、翌火曜日は休館) |
入館料: | 一般1200(1000)円・大高生900(800)円・中学生以下無料 *( )内は20名以上の団体料金および前売料金 *障害者手帳持参者は1000円 *本展覧会は特別展のため、通常展とは料金が異なります。 |
チケット取扱: | 8/1から前売り開始。ローソンチケット(Lコード37323)または チケットぴあ(Pコード688-746)にてお求めください。 |
主 催: | 山種美術館、NHK、NHKプロモーション |
特別協賛: | SMBCフレンド証券、鹿島、新日本空調、日本設計 |
協 賛: | アネックス 5×緑事業部、きんでん、コクヨ、越川、セコム、パナソニック電工 |
協 力: | 日本通運 |
お問合せ: | 03-5777-8600(ハローダイヤル) |
出品作品: | 約120点を展示(一部途中展示替あり)
速水御舟 ≪炎舞≫(重要文化財)、≪名樹散椿≫(重要文化財)、≪山科秋≫、≪桃花≫、 ≪春昼≫、≪百舌巣≫、 ≪昆虫二題 葉蔭魔手・粧蛾舞戯≫、≪翠苔緑芝≫、 ≪紅梅・白梅≫、≪豆花≫、≪オリンピアス神殿遺址≫、≪暗香≫、 ≪牡丹花(墨牡丹)≫、≪あけぼの・春の宵≫、≪秋茄子≫他 特別出品 ≪婦女群像≫、「渡欧日記」、その他資料類 |
大正から昭和を駆け抜けた日本画家・速水御舟。40年の短い生涯におよそ700余点の作品を残しましたが、その多くが所蔵家に秘蔵されて公開されることが少なかったため、「幻の画家」と称されていました。
初期の南画風の作風から、細密描写、象徴的作風、写実と装飾を融合した画風、そして水墨画へと、御舟はその生涯を通じて、短いサイクルで次々と新しい試みに挑み続け、常に挑戦者であろうとしました。
新「山種美術館」開館記念特別展では、当館所蔵の≪炎舞≫≪名樹散椿≫(重要文化財)を始めとする120点の御舟作品に加え、本邦初公開となる未完の大作≪婦女群像≫(個人蔵)および1930(昭和5)年の 渡欧日記(個人蔵)などを出展します。
これらの新出資料を通じて、40歳の若さで急逝した御舟が新たに目指していた方向性が明らかになることでしょう。本展では、山種美術館所蔵の御舟作品をすべて展示し、皆様にいま一度、御舟作品の凄みを体感していただきたいと思っています。
本展は下記の構成で、速水御舟の画業をたどります。
大正から昭和を駆け抜けた日本画家・速水御舟(1894-1935)は、40年の短い生涯におよそ700点余りの作品を残しましたが、その多くが所蔵家に秘蔵されて公開されることが少なかったため「幻の画家」と称されていました。しかし1976年に旧安宅産業コレクションの御舟作品105点が山種美術館の所蔵となり、従来からの作品とあわせて御舟コレクションが充実したことは大きなニュースとなりました。
新美術館開催記念特別展である本展では、当館所蔵の《炎舞》《名樹散椿》(重要文化財)をはじめとする120点の御舟作品に加え、初公開となる未完の大作《婦女群像》(個人蔵)および1930年の渡欧日記(個人蔵)も展示します。これらの新出資料を通じて、40歳の 若さで急逝した御舟が新たに目指していた方向性が明らかになることでしょう。
御舟の画業は、松本楓湖の安雅堂画塾から出発した。画塾での粉本(絵手本)模写を 通じて中国画、琳派、土佐派、狩野派、円山四条派、浮世絵など、数多くの流派を幅広く学び、その技術は磨かれていった。同門の先輩、今村紫紅と出会った後は、紫紅の影響を強く受け、おおらかな新南画風の作品を次々と制作する。また、南画とやまと絵を融合させた作風の作品には御舟の独自性も見られる。若くして筆技を極めていた御舟の初期作品を紹介する。
主な出品作品:《瘤取之巻》、《錦木》、《山科秋》ほか
大正6~7年にかけて、御舟は更に新たな転機を迎えることとなる。それまでの主情的ともいえる南画風の風景画から、徹底した写実への挑戦であった。御舟は次第にそれまでの南画風の表現を離れ、自然を 冷徹な眼で見つめて表現するようになっていく。大正9年以降は、中国・宋代院体画風を意識した静物画という新しいジャンルや、岸田劉生にも影響を受けながら、人物画において徹底した細密描写を行うようになる。
さらに、この徹底した細密描写は、《炎舞》(重要文化財)において伝統的な火炎表現と融合し、幻想的、象徴的な世界を生み出すことになっていく。
主な出品作品:《炎舞》(重要文化財)、《桃花》、《百舌巣》、《昆虫二題》ほか
一方、琳派は、御舟が生涯を通じて意識し続けた古典である。安雅堂画塾で琳派の粉本を模写して以来、琳派の作品からの影響は常に一貫して御舟の制作の根底にあったと思われる。御舟が精力を傾けて描いた2作の屏風《翠苔緑芝》、《名樹散椿》 (重要文化財)は、琳派的な構成を最も強く意識的にとりこんだ作品である。「構成は事実を土台とすべきである。事実を度外視したすべての構成は無力に近い」という御舟の言葉からもわかるように、これらの作品は従来の彼の作品と同様に対象の凝視を基礎としている。しかし、細密描写は影を潜め、大胆な色面による構成を意図してモティーフは平面的な形態に単純化されていく。ここに見る絵具の美しい発色は、質感描写の追求を通じて得られた、日本画の画材に対する卓越した理解にもとづくものであった。
主な出品作品:《翠苔緑芝》、《名樹散椿》(重要文化財)、《紅梅・白梅》ほか
御舟はイタリア政府主催ローマ日本美術展覧会の使節として渡欧し、10ヶ月もの間ヨーロッパ各地を歴訪した。その間に、渡欧以前から興味をもっていたエル・グレコほか、たくさんの西洋絵画を実見した。この体験により、帰国後にそれまでほとんど制作していなかった人物画に挑戦することとなる。本展では、渡欧中の御舟が現地を写生したスケッチ類、滞欧日記やその他の滞欧関連資料が初公開される。
御舟最晩年の未完の大作《婦女群像》もこのたび修復されてよみがえり初公開となる。
《婦女群像》のために帰国後に制作された裸婦素描や、人体の各部分の素描などからも、御舟が新たに目指したものが、単なる現代風俗による女性像ではなく、滞欧中に彼が見た西洋絵画に通じるような人物の群像表現であったことが明らかにされる。
主な出品作品:《婦女群像》、《裸婦》素描、オリンピアス神殿遺址》、
滞欧資料(日記ほか)、《青丘婦女抄 蝎蜅》ほか
渡欧後の御舟は、人物画に新たな展開を示す一方で、多くの花鳥画小品も制作している。これらの作品では、自然の写生から離れた大胆なデフォルメと構図上の工夫が重視されている。こうした晩年の花鳥画は、日本の画材による御舟ならではの、演出効果を生かしたものであり、当時から御舟の名声を高めている。
しかし、彼自身はこの達成に満足していたわけではない。晩年の御舟は「自分の作品
に主張がなくなった」、「絵が早くできすぎて困る」などと友人たちに語り、病気により40歳にしてその短い生涯を閉じる直前には、久しぶりに 自宅を離れて伊豆へ行き、しばらく隠棲して制作に没頭しようという計画を立てていたという。このように、御舟は自分の作品を冷静に分析できる画家であった。同時に、このままではいけないという葛藤を常に抱えていたのである。
挑戦者・御舟が葛藤し、そして目指そうとしていたものを最晩年の作品を通して探っていく。
主な出品作品:《豆花》、《秋茄子》、《桔梗》、《牡丹(墨牡丹)》、《あけぼの・春の宵》、《写生帖》、《三本松(写生)》ほか
本名蒔田栄一。 1908(明治41)年、松本楓湖に師事。1909(明治42)年、速水姓となる。 1911(明治44)年、今村紫紅と知り合い、紅児会に入会。 1914(大正3)年、御舟と改号、再興第1回院展に《近村(紙すき場)》を出品、日本美術院院友となる。 紫紅を中心に小茂田青樹、牛田雞村、富取風堂らと赤曜会を結成、新しい日本画の創造に果敢に取り組む。 1917(大正6)年、再興第4回院展に《洛外六題》を出品、横山大観、下村観山らの激賞を受け日本美術院同人となる。 1926(大正15)年、第1回聖徳太子奉讃美術展覧会に《昆虫二題 葉蔭魔手・粧蛾舞戯》を出品。 同年、初の個展を開催し、《炎舞》など17点出品。1928(昭和3)年、再興第15回院展に《翠苔緑芝》を出品。 1929(昭和4)年、再興第16回院展に《名樹散椿》を出品。 1930(昭和5)年、大観らとローマ日本美術展覧会美術使節として渡欧。 1935(昭和10)年、腸チフスにより突然逝去。 |
そのあまりに早い死は、日本画壇にとってきわめて大きな損失であった。常に新たな画風を展開し、日本画の表現の可能性を追求、新境地を開拓 した御舟の姿勢は、今日でも高く評価され、のちの日本画壇に与えた影響は大きい。