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平八郎の画業

山下 次に、福田平八郎の生涯について簡単にご説明させていただきます。彼は明治25年に大分で生まれました。そのまま大分の中学校に通っていたのですが、数学がすごく苦手で、数学の試験に落第したという話も伝わっています。ただ、絵を描くことが大好きだったので、上京して絵描きになろうと京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)に入り直し、そこで非常に優秀な成績を修めたようです。卒業してからも順調に作品の発表を続けていきました。

福田平八郎 昭和30年代頃、画室にて
福田平八郎 昭和30年代(63歳)頃、画室にて

福田平八郎 《牡丹》
福田平八郎 《牡丹》 1924(大正13)年 山種美術館蔵

山下 平八郎が若い頃、京都ではおどろおどろしい感じの絵が流行っていたんですね。そういう傾向を代表する作品が、当館所蔵の《牡丹》という屏風です。2010年に当館で開催した「百花繚乱」展でこの《牡丹》を出品したのですが、第2展示室をかなり暗くして、スポット照明を当てて展示したところ異様な迫力がありましたよね。

山﨑 そうですね、妖しい感じがしました。

山下 そう、妖しい日本画なんですよ。まるで、絵そのものが自ら発光しているのではと錯覚するぐらい妖しい光を放っていて。咲き誇る牡丹が屏風に描かれているこの作品、私の考えでは中国絵画の影響がすごく濃厚ですね。宋・元時代の花鳥画のスタイルを元にして、そこに大正期に流行った特有の陰影をつけています。平八郎自身もその当時を回顧して、あの頃は自分も宋元画風に非常にかぶれて影響を受けたと語っています。


福田平八郎 《漣》
福田平八郎 《漣》 1932(昭和7)年
大阪市立近代美術館建設準備室蔵
前期展示:5/26-6/24
平八郎の画業

山下 そういう時代を経て、だんだんと彼本来の資質である、非常に大胆なトリミングやデザイン感覚が活きてくる画面が生み出されていきます。平八郎の画歴を見ていく中でも特に重要な作品が、本展の目玉の一つである《漣》という作品です。全面銀地の上に、群青一色で漣だけを描くという大胆極まりない発想で描かれています。
ただ、《漣》は発表当時評判にもなったのですが、毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばしてるところもあるんです。田中一松という当時最も権威のあった美術史家は《漣》について、ちょっとやりすぎじゃないかというような厳しい展覧会評を書き残しています。私は田中さんをすごく尊敬しているのですが、その人でさえ平八郎の感覚についてこれていないのを知って驚きましたね。それぐらい平八郎の《漣》は大胆だったのでしょうね。

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